第1章:日本の国家戦略と研究開発体制
日本は、量子技術を国家戦略の要と位置づけ、官民学を挙げた体系的な開発・投資体制を構築しています。
1.1 国家戦略ロードマップ
内閣府の総合イノベーション戦略推進会議は、「量子技術イノベーション戦略ロードマップ」を策定し、量子センシングを含む量子技術の開発目標を明確に示しています。このロードマップでは、固体量子センサー(ダイヤモンドNVセンター)、量子慣性センサー、量子もつれ光センサーなどを重点分野として挙げ、2030年までにスケーラブルな量子センシングシステムの実現、2040年までに広範な量子強化技術の社会実装を目指す道筋を描いています。
1.2 重点的な研究投資
この戦略を実行に移すため、日本政府は継続的かつ重点的な予算配分を行っています。2026年度の科学技術関係予算は前年度比21.2%増の1兆1850億円に達し、AI、量子技術、材料などの戦略分野に重点的に投資されています。特に、文部科学省の「光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)」や「戦略的創造研究推進事業」の下では、量子センシングの基礎研究から応用開発までが強力に支援されています。2026年度には量子技術イノベーション基地間の連携強化のために新たに14億円が計上されるなど、研究エコシステムの構築にも注力しています。
第2章:主要技術分野と日本発の突破的成果
量子センシングは、計測対象に応じて多様な技術が並行して発展しています。日本の研究機関と企業は、特に以下の分野で世界をリードする成果を挙げています。
| カテゴリー | 代表的技术・原理 | 検出感度・性能 | 主な応用分野 | 長所 | 現状の課題/日本の開発動向 |
|---|
| 磁気センシング | ダイヤモンドNVセンター | ノイズ:<20 nT/√Hz (無遮蔽環境下) | EV電池電流監視、生体磁気計測(脳磁図・心磁図)、材料評価 | 常温・大気中動作、生体適合性、多物理量(磁場・温度・圧力)同時計測可能 | センサー用大型ダイヤモンド基板の製造が困難。→ 東京科学研究所らが異質基板上での大口径(>10mm)高品質ダイヤモンド膜形成に成功。 |
| 重力・慣性センシング | 原子干渉計 | 重力測定感度:10⁻⁹ G レベル | 地下資源・空洞探査、火山活動監視、GPS非依存航法(自律走行車、潜水艦) | 絶対測定、長期安定性 | 振動や熱的擾乱の影響を受けやすい。→ 量子慣性センサーの小型化・堅牢化が国家ロードマップの重点項目。 |
| 光・イメージング | 量子もつれ光 | 標準量子限界(ショットノイズ限界)を突破 | 低光量・低侵襲医療画像(3Dイメージング)、極微細欠陥検査、暗視 | 超低ノイズ、従来不可能な条件下での撮影 | システムが複雑。→ 量子もつれ光センサーの開発がロードマップで明記。 |
| 周波数・時間標準 | 光格子時計 | 相対精度:10⁻¹⁸ (300億年に1秒誤差) | 精密測位、相対論的測地(地盤上下微動監視)、基礎物理定数検証 | 人類史上最高の精度 | 大型で実験室環境に限定。→ 可搬化・小型化が進められている。 |
2.1 注目の実用例:ダイヤモンド量子センサーによるEV電池監視
日本の産学連携による代表的な成果が、東京科学研究所の波多野睦子教授、岩崎孝之教授らのチームによる革新的なダイヤモンド量子センサーの開発です。従来、数ミリメートルサイズに制限されていたセンサー用ダイヤモンド基板を、シリコン等の異種基板上に10ミリメートルを超える大口径で形成する技術を確立しました。これにより、常温で動作し、磁気シールドが不要な高感度電流センサーを実現。電気自動車(EV)のバッテリー内部の電流を高精度・高信頼性でモニタリングし、電池効率の向上や軽量化(最大10%減)への貢献が期待されています。この技術は文部科学省Q-LEAPプログラムの支援を受け、信越化学工業、産業技術総合研究所(AIST)との連携により進められた、日本ならではのオープンイノベーションの成功例です。
第3章:実用化・産業化に向けた機会と課題
3.1 拡大する応用機会
量子センシングがもたらす機会は計測科学のみならず、社会基盤や産業競争力の強化に直結します。
- 医療・ヘルスケア:従来は大型装置が必要だった高精度な生体磁気計測が、ダイヤモンドセンサーにより一般的な診療所でも可能になることで、アルツハイマー病などの神経疾患の早期診断・経過観察に革新をもたらすと期待されています。
- インフラ維持・資源探査:量子重力計を用いて、掘削を伴わずに地下の鉱床、地下水、空洞を高精度にマッピングできます。これにより、探査コストや環境負荷を大幅に低減できる可能性があります。
- 国家安全保障と堅牢な航法:量子慣性センサーはGPS信号が届かない場所や、ジャミングを受けた環境でも、超高精度な自立航法を可能にし、潜水艦や自動運転車の性能を飛躍的に向上させます。
3.2 克服すべき技術・社会課題
広範な普及のためには、以下の課題の解決が不可欠です。
- 技術成熟とコスト:多くのセンサーはまだプロトタイプ段階にあり、信頼性とコスト効率の向上が必要です。例えば、高品質な「量子グレード」ダイヤモンドの安定供給源は世界的に限られています。
- 人材不足:量子物理学、工学、特定応用分野(生物学、地質学等)の知識を併せ持つ学際的人材が世界的に不足しています。
- 研究開発から製品化への移行(技術移転):大学や研究所での画期的な研究成果を、産業界において信頼性の高い市販製品に結びつけるプロセスには、産学間の更なる緊密な連携と調整が求められています。
- 標準化と倫理・安全保障:急速な技術発展に伴い、測定の信頼性を保証する国際的な計測標準の確立が急務です。また、極めて微弱な信号を検出する特性は、ステルス技術の検出など新たな安全保障上の課題も生み出す可能性があり、社会的な議論とガイドラインの整備が必要です。
第4章:今後の展望:量子未来社会への日本からの貢献
日本の量子センシング研究は、国家的な戦略的投資、強固な材料科学と精密工学の基盤、そして産学官の効果的な連携により、世界の中でも特に実用化・産業化に強みを持つポジションを築きつつあります。東京科学研究所のダイヤモンドセンサーの例は、基礎研究の成果を具体的な社会課題(EVの効率化)解決に迅速に結びつける日本の力を示しています。
今後の発展には、国家ロードマップに沿った継続的な投資に加え、国際共同研究の推進、そして若手研究者から産業技術者までの多層的な人材育成システムの構築が鍵となります。量子センシングは、単なる計測機器の性能向上ではなく、我々が自然を観察し、社会インフラを管理し、健康を維持する方法そのものを根本から変革する可能性を秘めた技術です。日本はその「ものづくり」と「実装」の力を活かし、量子技術がもたらす未来社会の構築に主導的な役割を果たすことが期待されています。